安藤忠雄の「遠めがね虫めがね」
クローンペットが超えた一線
 ずっと事務所で犬を飼っていました。名前はモダニズム建築の巨匠にちなんでコルビュジエ。賢い犬で、私が苦手な依頼主か来ると突然起き上がってほえ立てた。コルビュジエが嫌がっているようだから、今回の話はまた…」となることもあり、私にとっては、かけがえのない存在でした。
 事務所の中で16年間、我が物顔で暮らしていましたが、3年前、老衰で死んでしまいました。生きものと共に過ごして、一番つらいのはこのときです。でもこればかりは自然の摂理だからどうしようもない。
 逆らえないはずの生命の問題までも、人間の力でコントロールしようとするのが現代のクローン科学です。米国では、死んだペットを、クローンとしてよみがえらせるビジネスが進んでいるらしい。実際に、クローン猫が元気に動き回る場面がテレビに映し出されていました。
 科学とは本来、人間の未来をより良い方向に導いていく、希望の道具であるべきでしょう。それが、ビジネスとして、個人のエゴを満足させるためだけに使われてはなりません。
 何事にも、その一線を越えてはいけない「臨界点」というものがあります。それを超えてしまったために、人間はこれまで、大切なものをたくさん失ってきました。ギリギリの飽和状態に達したとき、最後の一歩を踏みとどまらせるのは、やはり一人一人の理性、心の強さです。
 私は、自然にかえった犬が複製されて再び立ち上がることを全く喜びません。新しい犬を飼うのでもなく、時折コルビュジエのことを思い出したりする、それでいいんだと思っています。  (建築家・東大教授)
《出典》朝日新聞 (14/10/05) 前頁      次頁