◀前 【19.子張:第25】 次▶
陳子禽謂子貢曰。子爲恭也。仲尼豈賢於子乎。子貢曰。君子一言以爲知。一言以爲不知。言不可不慎也。夫子之不可及也。猶天之不可階而升也。夫子之得邦家者。所謂立之斯立。道之斯行。綏之斯來。動之斯和。其生也榮。其死也哀。如之何。其可及也。
ちんきんこういていわく、きょうすなり。ちゅうよりもまさらんや。こういわく、くん一言いちげんもっし、一言いちげんもっ不知ふちす。げんつつしまざるべからざるなり。ふうおよぶべからざるや、てんかいしてのぼるべからざるがごときなり。ふうほうんには、所謂いわゆるこれつればここち、これみちびけばここき、これやすんずればここきたり、これうごかせばここやわらぐ。くるやさかえ、するやかなしむ。これ如何いかんおよぶべけんや。
ちんきんが子貢にいった。――
「あなたはご謙遜が過ぎます。仲尼先生といえどもあなた以上だとは私には思えません」
すると子貢がいった。――
「君子は一言で知者ともいわれ、一言で愚者ともいわれる。だから、口はうっかりきくものではない。先生が、われわれのとうてい及びもつかない方であられるのは、ちょうど天に梯子をかけて登れないのと同じようなものだ。もし先生が国家を治める重任につかれたら、それこそ古語にいわゆる、『これを立つればここに立ち、これを導けばここに行なわれ、これを安んずればここに来たり、これを動かせばここに和らぐ。その生や栄え、その死やかなしむ』とある通り、民生もゆたかになり、道義も作興し、人民は帰服して平和を楽しみ、先生のご存命中はその政治をたたえ、亡くなられたらその徳を慕うて心から悲しむだろう。とても、とても、私などの及ぶところではないのだ」(下村湖人『現代訳論語』)