◀前 【19.子張:第12】 次▶子游曰。子夏之門人小子。當洒掃應對進退。則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰。噫。言游過矣。君子之道。孰先傳焉。孰後倦焉。譬諸草木。區以別矣。君子之道。焉可誣也。有始有卒者。其唯聖人乎。
子游曰く、子夏の門人小子は、洒掃・応対・進退に当りては、則ち可なり。抑も末なり。之を本づくるは則ち無し。之を如何。子夏之を聞きて曰く、噫、言游過てり。君子の道は、孰れをか先にして伝え、孰れをか後に倦まん。諸を草木の区にして以て別あるに譬う。君子の道は、焉んぞ誣うべけんや。始め有り卒り有る者は、其れ唯だ聖人か。
子游がいった。――
「子夏の門下の青年たちは、掃除や、応対や、いろんな作法などはなかなかうまくやっている。しかし、そんなことはそもそも末だ。根本になることは何も教えられていないようだが、いったいどうしたというのだろう」
子夏がそれをきいていった。――
「ああ、言游もとんでもないまちがったことをいったものだ。君子が人を導くには、何が重要だから先に教えるとか、何が重要でないから当分ほっておくとか、一律にきめてかかるべきではない。たとえば草木を育てるようなもので、その種類に応じて、取りあつかいがちがっていなければならないのだ。君子が人を導くのに、無理があっていいものだろうか。道の本末がすべて身についているのは、ただ聖人だけで、一般の人々には、その末になることさえまだ身についていないのだから、むしろそういうことから手をつけるのが順序ではあるまいか」(下村湖人『現代訳論語』)