◀前 【12.顔淵:第20】 次▶
子張問。士何如斯可謂之達矣。子曰。何哉。爾所謂達者。子張對曰。在邦必聞。在家必聞。子曰。是聞也。非達也。夫達也者。質直而好義。察言而觀色。慮以下人。在邦必達。在家必達。夫聞也者。色取仁而行違。居之不疑。在邦必聞。在家必聞。
ちょうう。何如いかなるをこここれたつうべきか。のたまわく、なんぞや。なんじ所謂いわゆるたつとは。ちょうこたえていわく、くにりてもかならこえ、いえりてもかならこゆ。のたまわく、ぶんなり。たつあらざるなり。たつなるものは、しっちょくにしてこのみ、げんさっしていろはかりてもっひとくだる。くにりてもかならたっし、いえりてもかならたっす。ぶんなるものは、いろじんりて、おこないはたがい、これりてうたがわず。くにりてもかならこえ、いえりてもかならこゆ。
子張がたずねた。――
「学問に励みますからには、いわゆる達人といわれる境地にまで進みたいと思いますが、その達というのは、いったいどういうことなのでしょう」
先師がいわれた。――
「お前はどう思うかね、その達というのは」
子張がこたえた。
「公生活においても、私生活においても、第一流の人だといわれるようになることだろうと存じますが――」
先師――
「それは名聞みょうもんというものだ。達ではない。達というのは、質実朴直で正義を愛し、人言にまどわされず、顔色にあざむかれず、思慮深く、しかも謙遜で、公生活においても、私生活においても、内容的に充実することなのだ。名聞だけのことなら、実行のともなわない人でも、表面仁者らしく見せかけ、みずからあやしみもせず、平然としてやっておれば、公私ともなんとかごまかせることもあるだろう。しかしそんな無内容なことでは、断じて達人とはいえないのだ」(下村湖人『現代訳論語』)