◀前 【09.子罕:第06】 次▶大宰問於子貢曰。夫子聖者與。何其多能也。子貢曰。固天縦之將聖。又多能也。子聞之曰。大宰知我乎。吾少也賤。故多能鄙事。君子多乎哉。不多也。牢曰。子云。吾不試故藝。
大宰、子貢に問いて曰く、夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なるや。子貢曰く、固より天、之を縦して将に聖ならんとす。又多能なり。子之を聞きて曰く、大宰は我を知るか。吾少くして賤し。故に鄙事に多能なり。君子は多ならんや、多ならざるなり。牢曰く、子云う、吾試いられず。故に芸あり。
大宰が子貢にたずねていった。――
「孔先生のような人をこそ聖人というのでしょう。実に多能であられる」
子貢がこたえた。――
「もとより天意にかなった大徳のお方で、まさに聖人の域に達しておられます。しかも、その上に多能でもあられます」
この問答の話をきかれて、先師はいわれた。――
「大宰はよく私のことを知っておられる。私は若いころには微賤な身分だったので、つまらぬ仕事をいろいろと覚えこんだものだ。しかし、多能だから君子だと思われたのでは赤面する。いったい君子というものの本質が多能ということにあっていいものだろうか。決してそんなことはない」
先師のこの言葉に関連したことで、門人の牢も、こんなことをいった。――
「先生は、自分は世に用いられなかったために、諸芸に習熟した、といわれたことがある」(下村湖人『現代訳論語』)