繊維にかける
絹の"脱サラ工房"
東京のベッドタウン、埼玉県入間市。
根岸伊佐夫さん(55)の仕事場は住宅街の一角、民家の庭先にある。
中に入ると、色の濃い液が入った大きな水槽が目を引く。薄い布地を渡され、言われるままにその液に漬ける。みるみるうちに布は勢いよく縮まり、凸凹が浮き上がった。
根岸さんが取り組んでいる塩縮という技法だ。

5年前、絹織物の加工会社シリウスを設立するまで、根岸さんは大手石油会社に勤めていた。サラリーマンのころから絹にひかれ、文献を読みあさった。紡ぐこともよる必要もない、自然が生み出した糸の光沢、肌触り。
だが、その美しさが絹のイメージを固定化し、新鮮さを求めるデザイナーがむしろ敬遠する素材になっていた。

「化繊にとって代わられ、着物とスカーフ、ネクタイだけの素材になってしまった絹に、再び光を当てたい」と思うようになった。

調べるうちに、硝酸カルシウムで絹を収縮させる方法を知った。
30~40年前には使われていたが、今ではすっかり忘れ去られている。繊維は門外漢。独学で液を作り、試作を始めた。ちょうどいい溶液の濃度、温度、布を漬ける時間を見つけるのに5年を費やした。

のり伏せをして模様を作ったり、ウールやレーヨンなどとの混紡、交織の布で縮みをまだらにしたり、工夫次第でどんどん面白い布ができた。
「絹100%でもふだんとは全く新しい表情になるし、混ぜるとほかの素材を生かす」。
繊細な表の印象と違って、力強い、もう一つの絹の顔を根岸さんはよみがえらせた。

うわさを聞きつけたデザイナーやアパレルメーカーから、加工注文が次々舞い込んだ。
「次にやることは絹の耐摩擦性を高める加工の研究。安心して洗えるようになれば、消費も伸びるはず」。従業員の山本明世さん(28)とたった2人、辺りにはほかに同業者もない小さな”脱サラ工房”が、絹の常識に挑んでいる。【上杉 恵子】
《出典》毎日新聞 (10/05/17) 前頁  次頁