現代詩の長女、逝く
茨木のり子さんを悼む (新川 和江)
 茨木のり子さんが急逝された。石垣りんさんが逝去されてまだ一年と少ししか経っていないのに、今度は茨木さんがと衝撃は大きく、息がまだ整わない。敬愛する女性詩人の先達を、続けざまに二人も私どもは失ってしまった。何があっても不思議はない年齢にお互いさしかかっているので、晩年の生き方については電話でよく語り合った。生き方はつまり死に方でもあった。「倚りかからず、にね」と詩集の題名にもなっているその言葉を、笑いながら言って電話を切られたのは、つい先頃のことだったのに。
 孤老死は双方覚悟の上ではあったが、茨木さんは、長く寝ついて人に厄介をかけることなく、ほんとうに「倚りかからず」に他界された。みごとな越境、とほめて差し上げるべきかも知れない。が、その声ももう届かない。
 人ははじめて出会った時の、互いの印象を容易に更新しない。加齢と共に容姿は衰えても、最初に印象づけられた若い日のイメージを、どちらも相手の上に見ているので、歳月の無情を嘆かずにたのしく付合えるのである。半世紀に渉って同じ時代を生きてきたが、私にとって茨木さんは、今も広く読みつがれている[わたしが一番きれいだったとき」の、〈ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩〉く、若く凛々しい茨木さんであり、東海道線の車窓から「根府川の海」を見やって、国を憂い、青い眉をあげる茨木さんの、美しい横顔なのである。すぐれた詩は、それが書かれた時点での作者の影像を永遠のものにする。
 茨木さんの出現が無かったら、戦後の日本の女性詩に、現在のような、明るく広く堂々とした道はひらけなかったろうと思う。三歳年少であるのに私などは、近代詩の抒情を引き摺って戦後の現代詩におずおずと足を踏み入れているが、茨木さんはそうしたやわな文学少女時代を持たず、すこやかに成人してから詩を書きはじめている。社会を視る目も人間としての良識も備え、しゃっきりと背すじを伸ばして登場されたのである。
 まさに、現代詩の長女。最初にそう名付けたのは私であったが、詩史上のその位置付けは正当であったと思う。戦前派でも戦中派でもない、全く新しい感性を持った詩人たちの詩誌「擢」が誕生したのは、一九五三年。やはり一昨年秋亡くなられた川崎洋さんが、「詩学」の投稿者仲間である茨木さんに呼びかけて、スタートした詩誌だった。大岡信さん、谷川俊太郎さん、吉野弘さん、岸田衿子さん、中江俊夫さん、水尾比呂志さんらも参加し、きらきら眩しい詩誌となった。全員が花形詩人の同人詩誌というのは、前例も後例も無い。ギリシア神話の若き神々が集うオリュンポスの山頂のように、私などは憧憬の目で仰ぎ見たものだった。
 茨木さんはまた、胸のすくような日本語の使い手であり、エッセイ集『言の葉さやげ』は幾度でも読み返したい名著である。詩は、とりわけ初期の詩を私は愛誦してやまないが、〈三月桃の花はひらき/五月藤の花々はいっせいに乱れ/九月葡萄の棚に葡萄は重く……〉と茨木さん、あなたはおうたいになった。その三月が、もうじき巡ってくる。地の下にも地の上にも「見えない配達夫」がいて、逝きやすい季節、逝きやすい時代のこころを、根から根へ、ひとからひとへと伝えるという。
 人間はさらに逝きやすい生物なのだろうか。茨木のり子さん、春を待たずあなたは逝ってしまわれた。(しんかわ・かずえ揖詩人)
■詩人・茨木のり子さんは19日、死去していたことが分かった。79歳。
《出典》毎日新聞 (18/02/21) 前頁  次頁