「ちょーかわいそうなの、セッちゃんって」
毎日新聞「余録」
 「ちょーかわいそうなの、セッちゃんって」。夕食後、一人娘の加奈子が言い出した。「なんで」「ソッコーだよ、速攻で嫌われちゃったの、みんなから」。
 セッちゃんというのは2学期から転校してきた中学2年の同級生だ。難しい年ごろだが、娘は何でも両親に報告した。娘のおしゃべりを会社で話すと、子どもを持つ同僚はうらやましがった。それが雄介のささやかな自慢でもあった。――重松清さんの「セッちゃん」はこうはじまる。
 いかにも幸せそうな家庭。物語が進むにつれて、セッちゃんは実はフィクションで、娘は同級生から「いい子ぶってる」「生意気」「ムカつく」「嫌われ者」などと言われていたことがわかり、両親はがく然とした。娘はセッちゃんに仮託して、悲鳴をあげていた。
 これは第124回直木賞に決まった重松さんの「ビタミンF」(新潮社)のなかの一編だ。「セッちゃん」は「身代わり雛(びな)」を川に流して、バイバイと両手を振り、顔を覆うところで終わる。かわいそうなセッちゃんは去り、元気な加奈子にまた戻ったのだろう。
 「ビタミンF」という題名について、作者はこう説明している。ビタミンFはない。ひとの心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい。そんな思いを込めて、七つのストーリーを紡いだ。Family、Father、Friend、Fight、Fragile、Fortune……<F>で始まるさまざまな言葉を個々の作品のキーワードとして物語に埋め込んでいったつもりだ、と。
 重松さんは1年ほど前、「大変な時代です。いま求められているのは、何かを終わらせる物語ではなく、何かを始めるための物語だと思います」と語っていた。この「ビタミンF」の主人公も何かを始めようとしている。ビタミンF(ファイト)を飲んで。
《出典》毎日新聞 (13/01/18) 前頁  次頁