時代の風 「働く意味の変質」
三井物産戦略研究部長 寺島実郎さん
「大人がモデルを示す必要」

 神奈川県警、新潟県警と警察の不祥事が続く。失望といらだちの中で、警察批判に留飲を下げがちとなる。自分自身の「小さな正義感」に陶酔しがちな気持ちを抑えるために、心の中にある警察に関する思い出を抽出してみる。
 米国駐在中、カリブの島に遊びに行ったところ、街中で警察官に呼び止められた。「日本人か」というので「そうだ」と答えると、「日本の警察はすばらしい」という。何事かと思ったら、彼は日本の警察の研修プログラムで、日本に留学してきたのだという。それからは、いかに日本の警察が優れており、現場の使命感が高いか、という話を延々と聞かされた。日本人として少し誇らしい気持ちになった。
 調べてみると、「麻薬犯罪取締」「国際組織犯罪捜査」「国際鑑識セミナー」「交通警察行政研修」などの目的で、1995年からの5年間で、383人の途上国の警察官が日本を訪れ、研修に参加しているという。
 知人の警察関係者には、頭の下がるような生き方をしている人も少なくない。父親を早く亡くし、高校を卒業して、弟や妹を養うために警察官になり、立派に弟や妹を進学させ、家を支えて頑張った人も知っている。警察とはそんな所だった。
 30年前の学生運動にぎやかなころには、バリケードの中のスネかじり学生に対して、生活をかけて「秩序」を守る機動隊員という皮肉な構図が成立していた。当時、私も学生で、時代への強い問題意識を持って「変革」を模索していたが、権力の先頭に登場してくる機動隊員の表情はいつも気になった。愚直に持ち場を支えようとする生き方、それがあってはじめて、それ以外の生き方も成り立つことを、彼らの表情が語りかけていた。平成になってからの10年間だけで、全国の警察官で殉職した人は49人になるという。
 今日、地道に社会の一隅を支えて黙々と働くことは容易ではない。警察、学校、病院など、社会生活の中で、最も「信頼」が問われる場での不祥事が続いているのも、このことと無関係ではない。この傾向は1990年代以降になって加速されている。このことを、別の角度から深く考えさせられる映像を見た。
 3月17日放映のNHKテレビ「ドキュメントにっぽん」の「とりあえずフリーターに」である。ある都立高校の今春の卒業生の約半数が、進学も就職もせず卒業したというリポートであった。ほとんどは、「自分が本当にしたいことが分からないので、それが見つかるまでフリーターとして生計を立てる」という若者であった。
 目指したい夢を持っている若者でも、「DJのような音楽関係」とか、「洋服販売のカリスマ店員」といったもので、「かっこよく目立ちたい」という願望の表現であった。親の世代が期待する「しっかりした組織に入るか、手に職をつけて安定」という人生設計からすれば、なんとも危うい生き方にみえるのだが、「上司に気を使ったり、先輩に小突き回されたくない」という階層型社会関係のストレスを拒否しているのが印象的だった。
 コンビニや居酒屋の店員のアルバイトで気軽に食っていける時代ということでもあるが、若者のためらいの背景にあるものとして、大人社会が若者に対し「こういう大人になるべし」というモデルとなる力を失っていることを指摘せざるをえない。とくに90年代に入って、「働く環境」の本質は急速に変化している。二つの要因が大きい。
 一つは、グローバルな市場化のもたらす影である。冷戦後の世界における「市場主義、競争主義」の潮流の中で、競争を制した者と競争に乗り遅れた者の2極分化が進行している。親の世代における過酷な競争やリストラの実態を見て、若者が不安と逡巡を感じたとしても不思議ではない。
 また、多くの大人が信奉している「市場に評価されることが価値」とする市場至上主義も、その本質が「株の時価総額で企業価値を測る」ような軽薄な「拝金主義」にすぎないことを考えると、若者に対し金銭的価値を超えた人生に挑戦する喜びを語る資格さえ喪失していることに思い至るのである。
 二つは、情報技術(IT)革命が雇用に与えるインパクトである。もちろん、インターネットの普及に象徴されるIT革命の進行によって、新しい事業や産業が興り、新たな雇用が創出されていることも確かである。しかし、働く中身は「産業の情報化」の中で確実に変化している。一言で表現すれば、オンライン・ネットワークで経営情報が効率管理されるにつれ、「情報の結節点」としての中間管理職の機能は不要になり、労働の質が単純で無機的な「マニュアル労働」と化していることである。例えば、コンビニの売り子のように、光学読み取り機でバーコードをなぞって売り場費理をするごとく、年功とか熟練が意味を持たない雇用パターンが、あらゆる現場で志向されているのである。
 つまり誇張していえば、「余人をもって代え難い」とか、「労働に全人格的喜びを見いだす」などということを、可能な限り避け、効率的で誰にでも代替可能なシステムをIT革命下の「スピード経営」は目指しているといえる。少数の創造的な経営管理者が、中間管理を排して大部分のマニュアル労働者を使う経営が評価される時代なのである。
 こういう状況は、あらゆる社会現場に浸透している。加えて、特に日本的現象だが、テレビが作りだす軽佻浮薄な文化状況が、若者の心を惑わしている。芸も能力もない未熟者が「タレント」としてはしやいでいれば、世間の注目を浴びて、いい生活ができるかのような情報を垂れ流し、運さえよければ自分もそうなれるという錯覚を醸成している。こうした雰囲気が総体として、きまじめに現場を支えることの空虚さを形成しているのである。
 綱紀粛正や勤勉誠実を求める叱咤激励も、「働くこと」が報われる社会を作らない限り、若者には響かない。大人社会が問われている。無味乾燥な拝金ロボットではなく、人間として生きる価値がこの国にあることを、大人の生き方と社会創造によって示さねばならない。
《出典》朝日新聞 (12/03/26) 前頁  次頁