土にもっと目を向けよう
私の見方 大島 隆
水や空気と同じように、土もまた、地上の動植物を根底で支える生命の源だ。だが、環境問題への関心の高まりとともに注目を集める水や空気と比べ、土への関心は、明らかに低い。
栃木版で元日紙面から八回連載した「栃木の土」の取材にとりかかり、まず、そう感じた。

この連載では農業、公害、陶芸などのほか、土葬の話も取り上げ、土と人との営みをあらためて見つめるのが狙いだった。

土に冷たい話を、多く耳にした。

栃木は、日本一のイチゴ産地だ。イチゴ作りで、土を全く使わない養液栽培の導入を進める農協関係者は、メリットの一つとして「土で汚れないから、若者にも抵抗がない」と話した。

園芸用の土として名高い「鹿沼士」が採れる鹿沼市の園芸用土業者は「植物にとって何のプラスにもならない粗悪な土までが堂々と売られ、しかも安いというだけでよく売れている」と消費者の土への関心の低さを嘆く。
土壌学者の一人は、土をテーマにすると聞いて「土は、素人受けしないですよ」と、忠告してくれた。

都市部に近い田畑や山林には、建設残土が運びこまれる事例が問題になっている。住民から「産廃などで汚染された土なのでは」と不安の声が上がる。
栃木県南部の小山市では昨年、田園地帯にこんもりと盛り上がった残士の台地をめぐり、反対集会に集まった住民と業者が、小競り合いになる騒ぎがあった。

大切さが顧みられないばかりか、やっかいものとして忌み嫌われることさえ珍しくないのが、今の土の現状だ。身近なようで、いざ周囲を見渡せば、市街地での私たちの生活は、土からどんどん遠ざかっている。

市街地でも、アスファルトをはがせはいくらでもあると思われているが、実際には地球上の土は、全陸地を平均すると厚さ20㌢にも満たない、わずかは資源だ。

本来あるべきところに、土がなくなったらどうなるか。

栃木県足尾町の松木渓谷で、その実例を見ることができる。時代劇や、子ども向けのヒーローもの番組の格闘シーンで、渡良瀬川源流城にあるこの寒々しい渓谷が、よく撮影場所として使われる。古くは、映画「人間の条件」のロケ地にもなった。

人工的な緑化が進んだ一部を除けは、両側の斜面には、むき出しになった岩と、がれきしかない。足尾銅山の精錬所が排出していた亜硫酸ガスを含んだ煙が草木を枯らし、地中の根を失った土が、雨とともに流されてしまったからだ。

さらに、水の貯蔵機能も失った山は、洪水が大雨とほぼ同時に起こり、鉱毒で汚染された泥が、下流の田畑を覆った。
土を失った山には、煙害が治まって四十年が過ぎた今も、草木が生えない。

松木渓谷は、地元の観光パンフレットでは「日本のグランド・キャニオン」と紹介されているが、人間がこの荒廃地を作り出したことを考えれば、これは悪い冗談でしかない。

国内ではあまり知られていないこの渓谷は、伐採や煙害で同じく緑を失った第三世界の技術者から注目を集めている。
営林署の緑化事業の視察には、国際協力事業団(JICA)の研修員をはじめ、毎年百人前後の外国人が訪れる。

人間が汚染、破壊したのは水環境や森林、大気だけではない。陸上に住む生物環境の土台である土もまた、痛めつけられ、弱っている。かつて人間が、おいしい水と空気は、永遠に存任し続けると考えていたように、今、土が苦しめられていることに気づいている人は、少ないのではないだろうか。
《出典》朝日新聞 (10/01/23) 前頁  次頁